写真よりも魅力的に、あるいは実物よりも美しく、緻密な描写で豊かな世界を描き上げた漫画家・谷口ジロー(1947～2017) の大規模な個展が世田谷文学館で開かれている。自筆原画約300点をはじめ、キャラクターラフやスケッチ、著作や画材など総数約480点で谷口ジローの世界に浸る。

　世田谷文学館は「想像力と創造力の源となる『文学』はあらゆるジャンルに偏在している」という信念のもとに、他の芸術ジャンルを横断するテーマに積極的に取り組む。漫画家では美内すずえや浦沢直樹など、これまで8人の展覧会を企画してきた。

　本展は、国内にとどまらず海外でも多くの愛読者を持ち、フランスのルーヴル美術館からもオリジナル作品を委嘱されるなど芸術として高い評価を受ける谷口ジローの魅力に迫る。展示は6つの章で構成し、中でも谷口自身が転換点と挙げた「『坊っちゃん』の時代」（関川夏央との共作）を詳しく紹介する。

　谷口ジローは20歳の時に漫画家を目指して上京。1971年に漫画誌デビューを果たした。編集者が原作者との仕事を提案したことがきっかけとなり、その後、何人もの原作者や共作者との漫画制作に取り組んだ。動物や自然、食、文学、SFなどさまざまなテーマに取り組み、広がった表現の幅は「歩くひと」など独特の世界観を持ったオリジナル作品へとつながっていった。

　大型の壁面パネルに作品が並ぶ様子に、漫画展示の柔軟性を感じる。1コマが大きく拡大されたものを前にすると、自分がコミックの中に入り込んだようで楽しい。

　いくつかの作品に展示されている表紙用のカラーイラスト原画で私が強く惹かれたのは光の描写。「孤独のグルメ」では店先や看板など背景の細かな描写も大変魅力的なのだが、そこにどかっと存在する美しい光彩を放ったブルーのスーツ。こんなに美しいスーツを見たことがないと思う。「歩くひと 完全版」の表紙も石垣などの緻密な描写に感心しつつ屋根瓦一つひとつの光が見事で見とれてしまう。

　そして私がうならされたのはやはり食べ物の描写。谷口の食の描写がいかにリアルで魅力的であるかは多くの人の知るところだが、コラムで紹介されている平松洋子のエッセイ「ステーキを下町で」の挿画として描かれた豚丼と第6章のルイ・ヴィトンのトラベルブック「ヴェニス」のプレートに心を奪われる。どんぶりにどっさり盛られた豚肉の、またはプレートにこんもり盛られた生ハムのなんと魅力的なことか。

　写真で見るより魅了されるわけを自分の心に探ってみる。そして写真では知ることのできないその場の空気や情景、できたての料理を前にした高揚感などが盛り込まれているからなのだと考えたところで、孤独のグルメの料理や店を谷口は写真だけで描いていたと知って驚く。目で見たもの以上の魅力を描き表した画は谷口の想像力と創造力のなせる技なのだ。「実際の店や場所より魅力的な画になっている」と原作者、テレビプロデューサー、監督皆が声をそろえる（「東京人」より）。そしてその力が発揮されるのは食だけではない。フランスのルーヴル美術館に依頼され描いた「千年の翼、百年の夢」での美術館館内の装飾は実物よりも温かい美しさを放っていると感じる。

　谷口が特に好きだったのは「歩くひと」であり、そこから続く「ふらり。」（伊能忠敬をモデルにした主人公が江戸の町を散策する物語）だった。風を感じるような臨場感あふれる風景や人物の描写が、読む者を「歩き」に連れ出し、心を満たしていく。谷口は病になってからも新しい作品に挑んだという。自身の求める漫画を描きながら人生を歩き続けた。

（文中敬称略）

参考文献
・「東京人 november 2021 no.445」都市出版株式会社、2021年

執筆・写真撮影　堀内まりえ
＊画像は主催者の許可を得て撮影したものです。
（本展覧会では一定の条件のもと、写真撮影が許可されています）