フジタがきわめたものとは? 60年近い画業の多面的世界。
2015年にローマを訪れた際、ヴァチカン美術館で藤田嗣治が描いた聖母子像に出合った。縦58×横48cmの油彩画だ。金地背景に清楚で優美な聖母マリアが幼子イエスを抱く。あどけないイエスの眼差しは真っ直ぐに我々を見る。幾何学形を効果的に使った構図のもとに、新奇性と伝統を併せもつ慈愛に満ちた聖母子像。魅了された。1920年頃の制作という。藤田は1920年代、パリで「素晴らしき乳白色」の裸婦像などが絶賛され、時代の寵児となった。一方で、早くから中世の教会を巡り研究し、宗教画も手掛けていたのだ。
■5年をかけて準備した大回顧展/最新の研究成果をふまえる
2018年は藤田嗣治(ふじたつぐはる)(レオナール・フジタ、1886~1968年)の没後50年。現在、その全貌を紹介する大規模な展覧会が開催中だ(東京都美術館にて10月8日まで、京都国立近代美術館にて10月19日~12月16日)。監修は、美術史家の林洋子氏。5年の準備期間を経て実現した展覧会という。国内外から油彩画を中心に、100点以上の作品が選ばれた。81年の生涯の約半分をフランスで送った藤田だが、その画業は60年近くに及ぶ。本展は、最新の研究成果をふまえ、東京美術学校時代の人物像から乳白色の下地の作品群、そして最晩年の宗教画まで、その多面的な世界を展観するものだ。
藤田は日本が生んだ世界的な画家であるが、フランス人として没した。第二次世界大戦期に作戦記録画(戦争画)制作を行った画家たちの責任を、戦後、日本の美術界が彼一人に背負わせようと藤田を糾弾する動きに出た。そのことで彼は苦しみ(1947年に公表されたGHQの戦犯リストに藤田の名は無かった)、1949年に離日。再び日本の土を踏むことはなかった。晩年にフランス国籍を取得。カトリックの洗礼を受け、名前もレオナール・フジタと改めた。著作権の問題もあり、藤田は長い間、展覧会も画集の出版も難しい画家だった。本展は、1968年の没年に開催された「藤田嗣治追悼展」(会場:東京セントラル美術館、京都市美術館)、そして2006年の「生誕120年 藤田嗣治展:パリを魅了した異邦人」(会場:東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、広島県立美術館)に続く大回顧展と位置づけられる、最大規模の展覧会だ。
藤田が画家としてきわめたものとは何か。必見の展覧会である。
■展覧会構成
本展は、編年構成による以下の8つの章からなる。
Ⅰ 原風景―家族と風景/Ⅱ はじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで/Ⅲ 1920年代の自画像と肖像―「時代」をまとうひとの姿/Ⅳ 「乳白色の裸婦」の時代/Ⅴ 1930年代・旅する画家―北米・中南米・アジア/Ⅵ 「歴史」に直面する―二度目の「大戦」との遭遇、そして作戦記録画へ/Ⅶ 戦後の20年―東京・ニューヨーク・パリ/Ⅷ カトリックへの道行き
■26歳の藤田、1913年に渡仏。パリ周縁部の風景など(1910年代)
1886(明治19)年に東京に生まれた藤田は、1905年に東京美術学校西洋学科に入学し、黒田清輝(1866~1924年)らの指導を受けた。在校時に描いた清新な《婦人像》(1909年、東京藝術大学)も卒業制作の《自画像》(1910年、東京藝術大学)にも、黒田が主導した外光派、白馬会の手法が見られる。1913年、26歳の藤田は陸軍軍医(後に陸軍軍医総監)であった父・嗣章の協力を得て、3年間の約束で渡仏した。パリのモンパルナスにアトリエを構えたが、翌年に第一次世界大戦が勃発。送金が途絶え苦しい生活の中で在欧を継続した。
藤田はパブロ・ピカソ(1881~1973年)やアメデオ・モディリアーニ(1884~1920年)らの知遇を得、前衛芸術に直に接し影響を受けつつ習練を重ね、彼独自の表現を模索した。パリに着いてすぐピカソの家でアンリ・ルソー(1844~1910年)の絵を見せられた際、「絵画というものはかくも自由なものだ、絵画の範囲というものはいかにも広いもので自分の考慮を遺憾なく自由にどんな歩道を開拓してもよいと言うようなことを直ちに了解した」★と記している。(★参考文献2。藤田嗣治『腕(ブラ)一本 巴里の横顔』、近藤史人 編、講談社文芸文庫、講談社、2005年。20頁より)(※藤田の言葉の引用はすべて同書より。以下、★と頁で示す)
《巴里城門》(藤田嗣治、1914年、ポーラ美術館)(※作品はすべて藤田嗣治の作。以下、略)は、第一次世界大戦前のパリ周縁部の情景を描く。面で緑の丘や人物をとらえ、温かみが感じられる。1913年8月にパリにやってきた藤田が、本作で初めて自信作が描けたと、でんぐり返しをして喜び、その旨を作品裏に記している。一旦手放したが、1930年代初頭にアルゼンチンで旅行中に見つけ、買い戻した。《パリ風景》(1918年、東京国立近代美術館)もパリ周縁風景だ。モノトーンで、大きな面積の道や背景描写に力が注がれている。
■「乳白色の下地」(1920年代)
藤田は、いよいよ「乳白色の下地」に墨の線で描くという独自の技法を完成させ、1921年秋のサロン・ドートンヌに自画像、室内画、裸婦の3点を出品した。このとき初めて裸婦の作品を発表。絶賛を浴び、以後次々に名作を生み出してゆく。1920年代は藤田の絶頂期である。
本展会場では藤田の裸婦像の傑作を数多く見ることができる。裸婦は、乳白色の下地を最も活かす主題だった。《横たわる裸婦》(1922年、ニーム美術館(フランス))は、モデルの白い肌の艶やかさと、身体の形を創り出す驚異的な極細の線描に圧倒される。漆黒の背景に白い身体が際立つ。《タピスリーの裸婦》(1923年、京都国立近代美術館)は、腰かけた裸婦の横に猫を配し、背景にケシの花模様のジュイ布が広がり、華やかだ。また、裸婦群像の大作2点が隣同士に並ぶ。これも圧巻。共に横が約2m。《五人の裸婦》(1923年、東京国立近代美術館)と《舞踏会の前》(1925年、大原美術館)である。後者の中心に立つ女性は三番目の妻リュシー・バドゥー(愛称ユキ)。藤田は1925年、フランスとベルギーから勲章を受章した。
藤田はこの独自の技法をどのように考案したのだろう。本展は各章に藤田の自画像を展示し、自画像の変遷も辿れるのだが、1929年制作の《自画像》(東京国立近代美術館)を見てみると、女性像の作品2点の前に、猫を横に坐らせた藤田が、硯の墨をつけた極細の面相筆を持ってポーズしている。また、彼は次の文章も残した。「ある日ふと考えた。裸体画は日本に極めてすくなく、春信・歌麿などの画に現わる、僅かに脚部の一部分とか膝の辺りの小部分をのぞかせて、飽くまでも膚の実感を画いているのだという点に思い当たり、始めて肌という最も美しきマチエールを表現してみんと決意して、…」「…輪囲を面相筆を以て日本の墨汁で油画の上に細線を以て画いてみた、」(★参考文献2の191頁より)。
藤田は下地に肌の質感そのものを表現し、不思議な魅力を感じていたという毛筆や墨を使った。西洋絵画の伝統にある裸婦という主題を、日本の浮世絵に想を得た肌に注目し、東洋の伝統である細い墨線で挑んだ。デッサンについては、フランス南部のドルドーギュ地方レゼジィにある原始時代の洞窟に入って半年間、研究したことも記述している(★参考文献2の202頁)。
■中南米などへの旅(1930年代)
1929年、藤田は16年振りに日本に帰国し、展覧会を開催。この年、世界恐慌が起こり、パリの美術界も大きな打撃を受けた。藤田は新しいパートナーのマドレーヌを伴い、旅の生活を送る(マドレーヌは1936年に急死。東京に墓がある)。約2年間、中南米などを廻り、その後、日本に滞在。沖縄や中国も訪れた。この時期の作品は、主に旅で出会った人々や街頭の様子を描写したものだが、それまでの洗練されたテイストとガラッと変化している。《町芸人》(1932年、公益財団法人平野政吉美術財団)は濃彩で、線描はなくなり、油彩画の執拗なまでの質感を感じさせる。また、メキシコでディエゴ・リベラ(1886~1957年)らの壁画に接した藤田は、公共空間で一般の人々に鑑賞される絵画としての壁画の可能性を感知し、日本で壁画を制作し、群像表現を追求した。秋田で平野政吉に依頼された20mの大壁画《秋田の行事》(※本展に出品無し)も、この時期の1937年に描かれた。
■作戦記録画(戦争画)(1940年代前半)
1939年に藤田は一旦、妻の君代と共にパリに向かったが、第二次世界大戦が勃発したため、1940年日本に帰国した。54歳になる歳だ。彼のトレードマークだったおかっぱ頭を丸刈りに変え、その後、戦場の取材と作戦記録画の制作に精力を向けた。
本展では大画面の2作品を展示する。戦意高揚のための戦争画は独特の雰囲気だ。《アッツ島玉砕》(1943年、東京国立近代美術館(無期限貸与作品))は全体が茶褐色。目を凝らすと、大人数の兵士たちが折り重なるように死闘を繰り広げている。向こうに雪山と荒れ狂う波。本作は1943年5月、北太平洋のアリューシャン列島にあるアッツ島で、米兵と17日間の戦闘後に玉砕した日本兵を描く。同年9月の国民総力決戦美術展に出品され、話題を呼んだ。また、《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945年、東京国立近代美術館(無期限貸与作品))は、横3.6mを超すサイズ。暗い画面に米軍に追い詰められ、自決し入水する民間人を描写し、陸軍美術展に出品された。藤田の戦争画は、大画面に迫力ある群像表現を行う西欧絵画の伝統的な歴史画を意識して描かれたとの指摘がある。
一方、猫たちが戦う《争闘(猫)》(1940年、東京国立近代美術館)という作品がある。ドイツ軍が迫るパリで制作されたものだ。藤田の絵によく登場する猫たちの多くは愛らしい。しかし、本作では全く異なる。14匹が宙を舞い、闘う姿が線描で描写される。背景は漆黒だ。猫の激しい動きと一つ一つの表情に恐怖感が募る。
■1949年に離日。フランスでの20年間。子供の絵や宗教画。
上述したように戦後の1949年、62歳の藤田は日本を離れ、二度と帰国をすることはなかった。《カフェ》(1949年、ポンピドゥ―・センター(フランス・パリ))は、日本からパリへ向かう途中に滞在したニューヨークで描かれた。しかし、パリのカフェが舞台だ。手紙を書こうにもペンが進まず、頬杖をつく黒いドレスの美しい女性。ルネサンス美術以来のメランコリアのポーズである。当時の藤田の心情と重なるのだろうか。コーヒーカップなどが彫られた木製の愛らしい額縁も印象深い。これも藤田の手になる。
1950年に帰還したフランスでは、モデルを使わずに描いた人形のようにも見える子供たちの絵や、宗教画を数多く制作した。1955年に妻と共にフランス国籍を取得した藤田は、1959年にカトリックの洗礼を受けた。73歳になる年だった。優美で洗練された《聖母子》(1959年、ランス大聖堂(ランス市立美術館寄託))は、洗礼を受けたランス大聖堂へ献納された作品。洗礼名「レオナール・フジタ」のサインが入る。以後、このサインを使うようになった。《礼拝》(1962~63年、パリ市立近代美術館)では、聖母を中心に左に藤田、右に君代が祈りを捧げる。天使や子供たちや兎や鳥たちが描き込まれ、奥に夫妻の住まいも見える。鮮やかな色彩で緻密な本作は、15世紀のフランドル絵画を研究したものとされる。
藤田は1961年、パリから郊外のヴィリエ=ル=バクルに移り、農家を改造してアトリエ兼住居とした。そして驚くことに、最晩年にフレスコ技法を学び、挑戦する。ランスに小さな礼拝堂を建て、内部にマリアの生涯の物語を表すフレスコ壁画を描くためだった。1966年夏にすべてを完成させた後、彼は病に倒れ、1968年に没した。享年81歳。藤田は今もその礼拝堂に妻と共に眠っている。礼拝堂の名はノートル=ダム・ド・ラ・ペ(シャペル・フジタ)。「平和の聖母」の意だ。会場には、晩年に夫妻の生活を彩った、藤田の絵付けをした皿など手づくりの品々も展示され、彼の温かなユーモア精神に触れることができる。
■「独創独案の画風、ただいい画家になりたい」
藤田は謎の多い画家でもある。技法を決して他人に見せなかった。画風も大きく変化する。戦争の悲惨さを体験した画家である。故国日本と永別しようとの彼の心情はいかなるものだったのか。会場の最後のほうに藤田の大小様々な形態の日記が展示されている。第二次世界大戦中のものは無い。日記は君代夫人(2009年に亡くなる)により東京藝術大学に寄贈された。
藤田が初めて渡仏した翌年、第一次世界大戦が勃発し、彼は苦悩の貧窮生活を送った。藤田はその頃の心境を次のように表明した。「嘗て自分がいままで過去に一度も見なかった、またこれから将来に容易に現れ出ないような作を生む事を希った。人の模倣を退け独創独案の画風、ただいい画家になりたいという希望であった」(★参考文献2の35頁より)。これは、藤田が一生涯心に抱き続けたものではないだろうか。
見応えのある藤田嗣治展。充分に時間をとってご覧ください。
【参考文献】
1) 東京都美術館・京都国立近代美術館・朝日新聞社・株式会社キュレイターズ 編集:『没後50年 藤田嗣治展』(展覧会図録)、朝日新聞社・NHK・NHKプロモーション 発行、2018年。
2) 藤田嗣治『腕(ブラ)一本 巴里の横顔』近藤史人 編、講談社文芸文庫、講談社、2005年。
3) 林洋子 監修・著、内呂博之 著:『もっと知りたい 藤田嗣治 生涯と作品』、東京美術、2013年。
執筆:細川 いづみ (HOSOKAWA Fonte Idumi)
(2018年9月)
※会場内の画像は主催者側の許可を得て撮影したものです。
写真1 藤田嗣治《カフェ》1949年 ポンピドゥ―・センター(フランス・パリ)蔵
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
(撮影:I.HOSOKAWA)
写真2 藤田嗣治《タピスリーの裸婦》1923年 京都国立近代美術館蔵
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
(撮影:I.HOSOKAWA)
写真3 藤田嗣治《自画像》1929年 東京国立近代美術館蔵
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
(撮影:I.HOSOKAWA)
写真4 藤田嗣治《争闘(猫)》1940年 東京国立近代美術館蔵
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
(撮影:I.HOSOKAWA)
写真5 藤田嗣治《礼拝》1962~63年 パリ市立近代美術館蔵
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
(撮影:I.HOSOKAWA)
【展覧会名】
没後50年 藤田嗣治展
Foujita: A Retrospective Commemorating the 50th Anniversary of his Death
【会期・会場】
2018年7 月31日 ~ 10月8日 東京都美術館
電話:03-5777-8600(ハローダイヤル)
2018年10月19日 ~ 12月16日 京都国立近代美術館
電話:075-761-4111(代表)
[展覧会詳細] http://foujita2018.jp
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