フランス北東部ロレーヌ地方のナンシーに生まれ、ガラス工芸を芸術の域に高めたエミール・ガレ(1846~1904年)が国際的な地位を築いたパリとの関係に着目し、その展開をパリ万国博覧会出品作や資料、計110件を通してたどる展覧会が開かれている。
ガレは父親が営む高級ガラスや陶磁器の製造卸販売業を引き継ぎ、芸術性の高いガラス製品や陶器、家具を制作した。「58年の生涯を通じてナンシーを拠点に過ごし、晩年にはナンシー派を結成して故郷の文化振興に貢献した人物という印象が強いが、その成功を考えるうえではパリでの作品発表や販売促進のための地道な努力が重要」だと本展担当の林佳美学芸員。
展覧会の柱となっているのは1878年、1889年、1900年の3回のパリ万博。1877年に家業を引き継いだガレが経営面、制作面で初めて指揮をとり、国際デビューを果たした1878年のパリ万博ではガラス部門で銅賞を受賞し、世界の大舞台で順調なスタートを切った。
この万博に出品された「脚付杯『四季』」は、無色のガラスの表面に白や黒、赤のエナメル装飾と金彩を施し、「この時期のガレの典型的な表現方法が用いられている」(林)。その後、この作品も出品された1884年の第8回装飾美術中央連合展で、ガレは審査委員会向けに作品の解説書を作成し、「無色のクリスタルガラスの冷ややかな装飾にあたたかみを与えるためにこのような手段をとりました」など、新しい表現や独創性を強調。本展にはこの解説書も展示され、ガレが作品をどのようにアピールしたのかがわかる。
この「脚付杯『四季』」はこの時期のガレの重要な作品ではあるが、父親の手法を踏襲したものでもある。しかし、この万博でガレは、当時のジャポニスムブームを反映して、ガラスと陶器で数々のジャポニスム様式の作品を出品している。『北斎漫画』からモチーフを転用した「花器『鯉』」は、万博出品作と同一モデル。この万博を目指して開発した淡い水色のガラス素地「月光色ガラス」は人気を博し、欧州各地で模倣された。流行を取り入れたり、新手法を披露したりするなど、パリで自社製品を認めてもらおうとする意欲や野心が伝わる。
1889年のパリ万博では、ガラス作品約300点、陶器約200点、家具17点を出品。ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金賞、家具部門で銀賞を獲得し、さらなる成功を収めた。この実績で翌年、国立(国民)美術協会の会員に認められ、パリで毎年開催される国立美術協会展に出品するチャンスを手にする。今回も審査委員会向けに素材、技法、道具に関して詳しく記した解説書を作成、これも展示されている。
89年のパリ万博でガレが発表した新シリーズの一つが黒色ガラスだ。従来、あまり使われてこなかった黒味を帯びたガラスを使ったシリーズで、黒いガラスと表面を彫るテクニックを組み合わせることで、悲しみや生と死、闇などを表現し独特な世界を展開することに成功している。
パリ万博出品作の「花器『ジャンヌ・ダルク』」はその代表作。ガレの故郷ロレーヌとアルザス地方の一部は1870年に勃発した普仏戦争でドイツに割譲された。ガレは志願兵として従軍していることからも、同じロレーヌ地方出身のジャンヌ・ダルクは強い愛国心を象徴するモチーフとしてたびたび作品に登場している。悲劇のヒロインを黒が持つ翳りを巧みに使って抒情的に表現。展示室では照明にもこだわり、繊細な表現と作品の深みを味わえる工夫がこらされている。
黒色ガラス作品はほかにも、万博出品モデルでギリシャ神話に登場するアモールとプシュケの試練の物語を題材にした「蓋付杯『アモールは黒い蝶を追う』」、底部にシェイクスピアの詩の一説が添えられた「脚付杯『昆虫』」などを展示している。
ほかにも万博出品作で、新たに開発した着色法によるピンクの色調が微妙なニュアンスを醸し出す「花器『マグノリア』」、無色透明ガラスにアメジスト色のガラスと黒色ガラスを被せて神話的場面を彫り出した「杯『私の遺産はキマイラ』」、青緑色ガラスを用いた「花器『好かれる心配』」などの意欲作が並ぶ。
本万博での成功を機に、ガレは社交界との繋がりを深めていく。特に、パリ社交界の中心人物であるロベール・ド・モンテスキウ=フザンサック伯爵の人脈で女優サラ・ベルナールや小説家エミール・ゾラ、彫刻家オーギュスト・ロダンなど芸術文化や社会に影響のある面々たちと知り合い、ネットワークが広がったばかりか、顧客としても繋がっていったことは大きい。
本展では、パリの社交界との関係を示す作品としてモンテスキウの詩集『蝙蝠』刊行を記念して制作された「栓付瓶『蝙蝠・芥子』」、批評家ロジェ・マルクスがガレから献呈されたとされる「花器『秋』」などが出品されている。
こうしてガレが、フランスを代表する装飾芸術家であり文化人として世間から注目されるようになった1894年に、フランス世論を揺るがした「ドレフュス事件」が起きる。ユダヤ人大尉ドレフュスがドイツ側のスパイ容疑で逮捕された冤罪事件で、ガレはドレフュスを救おうと人権擁護連盟ナンシー支部の役員にもなり、無罪の正義を貫く主張を展開した。しかし、この行動はパリでは支持されたものの、ナショナリズムや右翼勢力が隆盛しつつあったナンシーの人々からは反感を買ってしまう。
また、次の1900年のパリ万博に関しても、ナンシーを中心に「都市ばかりが発展し、地方には何の利益ももたらさない」との反対意見が多くあがり、ガレは故郷ナンシーと国際都市パリとの間で精神的重圧に苦しんだ。
このような状況にありながらも、1900年のパリ万博でガレは、造形的にも観念的にも観る者の心を震わす独自の世界観を展開。出品者8万3千人、7か月以上にわたる会期に訪れた人の数は5千万人以上にのぼったというこの万博で、ガレはガラス部門と家具部門でグランプリを受賞した。
この万博を目指して研究を重ねたガラスを象嵌するように加工する「マルケトリ」と、故意にガラスの表面を失透させる「パチネ」などの新技法は、ガレのガラス表現の可能性をさらに拡張させ、多様化させるのに大いに作用した。この二つの技法は以降の作品にも多用される。
本展に出品されている1900年万博モデルの「昼顔形花器『蛾』」は、2匹の蛾をあらかじめモチーフの形に整えたガラス片を溶着する「マルケトリ」で表現している。ほかにも同形モデルが同万博に出品されヴィクトル・ユゴーの詩が刻まれた「聖杯『無花果』」、色彩のグラデーションが溶け合う「花器『おだまき』」、森林をテーマにした「花器『風景』」、神秘的な海の世界が表された「大杯『くらげ』」など「マルケトリ」や「パチネ」を用いた作品も多数出品。円熟期のガレの世界が広がる。
また、この万博の出品作について、誰がどの作品を注文し、いくらで買ったのかが記録された受注控えが、パリで正式にガレ製品を販売していた受託代理人デグペルス家に伝わり、2023年にサントリー美術館が収蔵、本展で初公開している。300件以上記された発注者の中には日本人の名前もあるという。この受注控えからは、ガレがナンシーに拠点を置きながらもパリでの販売促進に力を入れる事業の様子がわかる。
3回の万博を経て成功したガレだが、ハードなスケジュールや心労がたたったこともあるだろう、1901年頃から療養を繰り返し、1904年白血病により死去。58歳だった。
展覧会の最後では、この4年間に制作されたガレの集大成ともいえる作品を展観している。
「花器『海馬』」は、ドレフュス事件の際、ガレと同じドレフュス擁護派の政治家でジャーナリスト、弁護士だったジョセフ・レナックが『ドレフュス事件史』を出版したのを記念してガレが献呈したといわれる作品。2匹の海馬=タツノオトシゴが向き合って漂う姿が描かれている。
海馬のモチーフは1900年のパリ万博を見据えてガレが考案したと推測されている。
「脚付杯『蜻蛉』」は、ガレが編み出してきたさまざまな表現技法が駆使された作品。白血病を患って死期を予感したガレが数点制作し、友人や親せきに贈ったものの一つとされている。
国際都市パリで、万博への参加や委託販売店による販売促進戦略を通して、フランスを代表する装飾芸術家の地位を築いたガレが、最後に望んだのは、故郷ナンシーにおける地域芸術産業の発展だったという。1901年にガレを初代会長にさまざまなジャンルの36名の芸術家による産業芸術地方同盟「ナンシー派」が発足した。喜びと苦悩の中で、熱い思いを貫いたガレの一生が凝縮された展覧会だ。
執筆・写真撮影:西澤美子(文中敬称略)
※写真は主催者の許可を得て撮影しています。
冒頭の写真は「没後120年 エミール・ガレ:憧憬のパリ」展示風景
参考文献:「没後120年 エミール・ガレ:憧憬のパリ」展 図録 (富山市ガラス美術館・サントリー美術館 2024年)