桃山美術の最高峰を東京で見る
智積院(ちしゃくいん)は、京都の東山七条に建つ真言宗 智山派の総本山である。京都国立博物館の近く。筆者もそうなのだが、智積院に愛着を抱く人は多いだろう。この古刹は長谷川等伯(1539~1610)一門による《楓図》《桜図》など国宝の金碧障壁画群を所蔵する。これは水墨画の国宝《松林図屛風》(東京国立博物館)とともに等伯の代表作であり、桃山美術の最高峰である。東京のサントリー美術館で開催中の本展では、この障壁画群を寺外で初めて同時公開する。そして智積院が永く守り伝えてきた寺宝を、仏教美術から近代絵画まで70余件展観。稀有な機会となった。
以下、智積院の歴史と障壁画群を紹介したい。
智積院の歴史/奇妙なめぐりあわせ
智積院は、弘法大師空海(774~835)を宗祖とする真言宗の、智山派の総本山として、現在、約三千の末寺を擁する。起源は、室町中期に紀州(今の和歌山県)高野山の麓に興った根来寺(ねごろじ)。学問研究の場として栄えたが、寺の拡大する勢力が天下統一を狙う豊臣秀吉(1537~98)には脅威となる。天正13年(1585)、智積院は秀吉により焼討ちされ、一時途絶えた。だが学頭・玄宥僧正が学徒を率いて京都に上り、徳川家康(1542~1616)の帰依を受ける。慶長6年(1601)に京都東山に寺領を拝領。智積院を再興させた。
不思議なのは、家康から寄進された京都の寺領に、当時無住となっていた祥雲禅寺(祥雲寺)が含まれていたこと。祥雲禅寺は秀吉が、数え年3歳で夭折した長男・鶴松(棄丸)(秀頼の兄にあたる)の菩提を弔うため文禄2年(1593)に建立し、秀吉はその客殿を飾る障壁画群の制作を長谷川等伯に依頼した。智積院はその後、火災や盗難に見舞われたが、寺宝を大切に守護し今に伝える。秀吉に焼討された智積院が、秀吉の建立した寺を守る。実に奇妙なめぐりあわせである。
長谷川等伯一門による国宝の障壁画群
展覧会会場の光景に胸が高鳴った。大画面の金碧障壁画群が並んでいる!
等伯筆の国宝《楓図》(六面、桃山時代 16世紀、智積院)(※所蔵はすべて智積院。以下略)は、金地背景の中央に楓の巨樹を配し、枝を左右に大きく伸ばす。楓の葉は緑、赤、茶など色彩を変化させ、平面的で軽やか。樹の周りには木犀(むくげ)、菊、萩、鶏頭など秋の花々が写実的に描写される。白い花が多い。群青色の池のような丸い形状が唐突で面白い。よく見ると金地が直線や円弧で区切られている。豪快な構図なのだが威圧感がなく、抒情性に富む。自然の美が、秋の気配が心に深く浸みる。色彩も絶妙で、白色が効いている。全体もどの細部も美しい。
国宝《桜図》(五面、桃山時代 16世紀)は、等伯の息子で一番弟子の長谷川久蔵(1568~93)の作。中央に桜の巨樹を前後に配し、画面いっぱいに大ぶりな桜が咲き誇る。全てしっかり正面を向く。花弁は胡粉(ごふん。白色顔料)を盛り上げて描かれ、画面全体に複雑さをもたらす。桜の背後に柳が枝垂れ、周辺に春の植物が咲く。春爛漫の情景。華やぎが満ちる。久蔵は優れた画力で将来を期待されたが、本作を完成後26歳で亡くなった。
国宝《松に秋草図》(二曲一双、桃山時代 16世紀)は大らかな情趣がある。巨大な国宝《松に黄蜀葵図(まつにとろろあおいず)》(四面、桃山時代 16世紀)は動勢を見せる。ともに等伯の作である。また清々しい国宝《雪松図》(長谷川派、四面、桃山時代 16世紀)は弟子の制作とされる。
等伯は障壁画群全体で何を描いたのか
障壁画全体を眺めると、豪快で華麗であるとともに、和らぎが感じられる。自然の美しさが抒情性をもって伝わってくる。鳥や虫などを植物とともに描く花鳥図ではなく、植物だけ描く花木図であることにあらためて気づいた。また障壁画の縦のサイズがそれぞれ異なることもわかる。これは、火災で障壁画を救い出した際などに仕立て直しや改変が行われたためだという。祥雲禅寺に描かれた元の画面のままのものは、縦228㎝の《松に秋草図》とされる。一方、《楓図》《桜図》は縦が172.5cm。上部にもっと絵があってもいいようにも感じていたが、失われた50cm余の部分に何が描かれていたのだろう。
智積院障壁画には本展に未出品のもの、また昭和22年(1947)の火災で焼失した作品もある。会場でその白黒写真も紹介されている。祥雲禅寺客殿の各間ごとに季節がめぐるのだろうか。祥雲禅寺創建時の全体像を知りたくなる。幼い鶴松の菩提寺の荘厳の絵画であるが、本作の発想はどのように生まれたのだろう。等伯が若い時に仏画を描いた経験も生かされているのだろうか。
ここで等伯の経歴を簡単にみておこう。長谷川等伯は能登七尾の出身。地元で仏画などを制作後、上洛し、牧谿(13世紀後半)らの水墨画を摂取。そして早くから天下人に重用され活躍した狩野永徳(1543~90)の大画様式も習得し、等伯独自の画風を確立。永徳とともに桃山美術の画人として双璧をなした。画風も出自も異なり対抗したとされるこの二人の影響関係も興味深い。
祥雲禅寺建立時には永徳は他界している。サントリー美術館の石田佳也学芸部長は、本展図録の論考「抒情と荘厳の空間 智積院障壁画にみる等伯の構想力」※で、等伯の障壁画群の意義を詳述され、この障壁画群は、秀吉が実母の病気平癒のために創建し永徳に障壁画を描かせた「天瑞寺客殿の障壁画を下敷きにしつつ、・・・長谷川派として新たな独自性を意欲的に取り込もうと試みた作品」と著述。会場内解説でも紹介があるが、永徳による天瑞寺客殿の障壁画は、「松、桜、竹、菊の4種の植物を各間ごとに極彩色で描いた構成」で、禅宗寺院での極彩色の絵画は新しいことだったという。(※【参考文献】の1。18~31頁)
本展は長谷川等伯の魅力をじっくり味わえる。また、他の寺宝も国宝《金剛経》など逸品ぞろいで、智積院の学問寺としての歩み、懐の深さ、幅広い交流を伝えてくれる。
(なお、2020年11月の拙稿 特別展「桃山―天下人の100年」で、等伯と永徳の作品が並んで展示された展覧会を紹介している)
【参考文献】
1)サントリー美術館・朝日新聞社 編集:『京都・智積院の名宝』(展覧会図録)、朝日新聞社、2022年
2)黒田泰三:『もっと知りたい 長谷川等伯 生涯と作品』東京美術、2010年
執筆・展示風景写真(★を除く):細川いづみ(HOSOKAWA Fonte Idumi)
★広報用画像
(2022年12月)
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