ジュアン・ミロの70年の画業をじっくりたどる
カタルーニャ生まれのジュアン・ミロ(1893~1983年)は、ピカソ、ダリと並んで20世紀スペイン絵画を代表する巨匠である。優れた内容のミロの回顧展が、東京都美術館で開催中だ。バルセロナのジュアン・ミロ財団創立50周年を記念し、同館長らの監修のもと、絵画を中心に陶芸やオブジェ等も含む100点近い作品が撰ばれ、出展。本展を担当した東京都美術館学芸員の髙城靖之氏は、「ミロを客観的に見ることができる」と語る。これほど大規模なミロ展は日本では1966年以来、約60年ぶりという。
ミロの芸術は独特だ。洞窟壁画?象形文字?記号なのか? 日月星辰や女なのか? 原色の多用はなぜ? 長い作品名の意味は? なお日本の思想との共通点は早くから指摘がある。1966年に初来日した73歳のミロは、「長いあいだ日本を夢見ていた」と述べた。ミロはその3年後にも来日し、1970年大阪万博のガス・パビリオンのための壁画を制作した。
ミロの画業は、90年の生涯のうち約70年にわたり、大きく変容を遂げる。しかし一貫するものがある。本展英文サブタイトルは、“Poetry into Painting”である。
模索する若きミロ
ミロは1893年4月にバルセロナに生まれた。アントニオ・ガウディ(1852~1926年)の設計によるサグラダ・ファミリア大聖堂は、この年に「降誕の正面」が着工。ミロは幼いときから大聖堂建設を眺めていただろう。因みにミロが20歳の頃、聖ルカ芸術協会の素描教室で、老いてもなお、素描を勉強していたガウディに会っている。
ミロは美術と簿記を学んだが、17歳で父の希望に従い会計係の仕事に就いた。しかし全く合わない。うつ病と腸チフスを患ってしまう。そして、葡萄畑の広がる美しい村モンロッチにある父の別荘で療養し、回復後に画家になることを決意し、バルセロナで美術の勉強に励んだ。また、モンロッチはミロが常に回帰する大事な場所となり、頻繁に訪れた。
力強い筆致の《シウラナの教会》(1917年)は、モンロッチの北に位置する場所の風景だ。フォーヴィスム等の影響が見える。しかし、翌年の《ヤシの木のある家》(1918年)では画風が一変し、細密描写となる。単純化された形態も共存する。会場にはミロの言葉も紹介されている。「誰もが木々や山々の大きな塊ばかりを求め、それを描こうとしますが、草の葉や小さな花の音楽を聞くこともなく、渓谷の小さな石に注意を払うこともありません。――それはとても魅惑的なのに。 1918年」
パリへ。「夢の絵画」で名声を得る
1920年、ミロは初めて前衛芸術の中心地パリを訪れた。すぐに尊敬するパブロ・ピカソ(1881~1973年)を訪問し、両者の親交は生涯続く。本展ではピカソが所蔵したミロの《自画像》(1919年)も出品されている。パリでミロはしばらく一本の線も描けないほど圧倒された。翌年、ブロメ通り45番地にある画家アンドレ・マッソン(1896~1987年)の隣のアトリエを借り、シュルレアリストの詩人や芸術家たちと交流した。パリとモンロッチを往復して制作に励み、シュルレアリスムの影響が顕著な「夢の絵画」と呼ばれる100点以上の絵画を生み出した。好評を得たが、ミロは人気画家になることには反発した。
《絵画=詩(栗毛の彼女を愛する幸せ)》(1925年)は、「夢の絵画」のうち、文字を伴った連作「絵画=詩」の一点だ。
スペイン内戦から第二次世界大戦。苦悩するミロ。シリーズへ
1936年7月、軍部のクーデターを契機にスペイン内戦が勃発した。身の危険を感じたミロはパリに逃れ、その後4年帰国できず仮住まいを転々とした。
《スペインを救え》(1937年)は、共和国支援の資金調達のための切手のデザインだったが、切手発行は実現せず、雑誌の付録となった。ミロは余白に「…計り知れぬ創造力の源泉をもった民衆を見る」等を記載。1937年のパリ万博で、ミロはスペイン共和国パヴィリオンに高さ5.5mの壁画《刈り入れ》を制作した。本作は現在行方不明。実作を見てみたい。この万博にはピカソの《ゲルニカ》が展示された。しかし1939年、スペインではフランコ独裁政権が成立。ミロと独裁政権との対立は、1975年のフランコの死まで続いた。
1939年9月には第二次世界大戦が勃発。ミロはその1ヵ月前にパリを離れ、ノルマンディーに避難した。彼は凄惨な戦争から逃避し殻にこもり、極限の精神状態のなかで、シリーズを開始した。危難をくぐり抜け帰国して妻の故郷のマジョルカ島やモンロッチで、23点の連作を完成させた。携行できる小さなサイズで、「紙」に描かれたグワッシュ画である。母国でも亡命者のように暮らした。「バッハの曲に慰められた」、「夜や音楽や星たちが絵の中で重要な役割を演じ始めた」という。本展にはこの重要なシリーズのうち3点が出品。
《明けの明星》(1940年)は妻へ贈った作品。淡い赤黄青茶の背景に、星や女の人や鳥や怪物らしきものがつながり浮遊するようにも見える。ミロはこの連作で、その後に一貫する独自の記号的な造形言語を確立した。髙城 学芸員は本連作を「凄惨な現実を超えて、その先の希望を提示する」と評する。
内省を重ねて新たな創造へ。絵画の本質を問う
1941年、ニューヨーク近代美術館でミロの展覧会が開催され、高い評価を得た。1947年にミロは壁画制作のため初訪米。アメリカに亡命した前衛芸術家の旧友たちと再会し、アメリカの芸術家とも交流した。1956年、パルマ・デ・マジョルカに定住し、広いアトリエを構えた。1966年には初めて日本を訪れた。ミロの作品はサイズが大きくなり、オブジェも手掛ける。絵画の本質へ探究を続けるミロの芸術は、自身老いてもなお、生き生きと自由闊達さを増してゆく。
《太陽の前の人物》(1968年)は、力強い筆触、シンプルな形態と色彩、飛び散るような描法で描かれ、なんともいえぬ愛嬌をもつ。筆者は強く心をつかまれ、しばし眺め入った。日本の江戸時代の画僧・仙厓義梵(1750~1837年)が宇宙を表現したとの「〇△□画」(18世紀前半)に関連した作品だ。アメリカ抽象表現主義の影響も見える。
ミロ80歳の頃の作品も面白い。《花火Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ》(1974年)は、驚くべき迫力の黒い花火の三連画。日本の前衛書道からの影響が色濃い。《焼かれたカンヴァス2》(1973年)は、実際にカンヴァスの絵画を切り、焼いてしまった。詩的なタイトルの《涙の微笑》(1973年)は、下地のないむき出しの画面の上空に歪んだ月と星が浮かぶ。下方は収穫時の畑だろうか。筆者にはモンロッチの田園風景に見えてくる。
ミロの作品に「眼をひたす」
本展会場をめぐると、謎は謎のままなのだが、ミロその人に近づけて、ミロの宏大な宇宙の一隅に自分が入り込んだような感覚を得た。ミロは生涯、独自の造形言語で自然への讃歌を歌っていたのか。
ミロの良き理解者であった詩人ミシェル・レリス(1901~90年)は、「ミロの作品に近づく最良の方法…」として次のように記した。「自分を空(から)にし、底意なしにそれを眺め、多くの傑作のうえに積もった塵を洗い流す水さながらのそれに、眼をひたすことだ。このようにして再び得られた無垢のおかげで、私たちのなかに、詩の扉が大きくひらくであろう。 1947年」(参考文献3。35頁)。
【参考文献】
1)東京都美術館、朝日新聞社 編集:『ミロ展』(本展図録)、朝日新聞社、2025年
2)松田健児、副田一穂 著:『もっと知りたい ミロ 生涯と作品』、東京書籍、2022年
3)ミシェル・レリス 著、岡谷公二 編訳:『デュシャン ミロ マッソン ラム』人文書院、2002年
4)酒井健 著:『シュルレアリスム 終わりなき革命』中公新書、中央公論新社、2011年
執筆・撮影:細川いづみ(HOSOKAWA Fonte Idumi)(2025年5月)
※会場内の風景画像は主催者側の許可を得て撮影したものです。
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ミロ展
Joan Miró. Poetry into Painting
【会期・会場】
2025年3月1日(土)~7月6日(日) 東京都美術館(東京都・台東区)
※詳細は公式サイトでご確認ください。
公式サイト https://miro2025.exhibit.jp/
※なお、5月17日~6月1日は「スペイン☆ミロウィ―ク 第2弾」を実施。