芸術広場芸術広場

小平市平櫛田中彫刻美術館「民藝運動の作家たち」

2018年1月25日

 日本近代彫刻の巨匠・平櫛田中(ひらくしでんちゅう、1872~1979)が最晩年を過ごした地に立つ「小平市平櫛田中彫刻美術館」で現在、田中が所蔵していた民藝の作家たちの作品を中心とする企画展「民藝運動の作家たち」が開かれている。田中の旧邸宅を公開し、約200点の田中作品を所蔵するこの美術館では、平櫛田中という人物について知り、理解を深めることができる。

玉川上水を臨む地に佇む美術館
 玉川上水を臨む閑静な住宅街に、その美術館は佇む。「小平市平櫛田中彫刻美術館」、日本近代彫刻の巨匠・平櫛田中の旧邸宅を記念館とし、隣接する展示館では美術館が所蔵する田中の彫刻・書・資料などを企画展示するほか、田中と関わりのある作家の作品展示などを企画する。
 
 田中が台東区からこの地に移り住んだのは1970(昭和45)年、田中が数え年98歳だったため、「九十八叟院(そういん)」と自ら名づけた。玉川上水を愛した田中が1935(昭和10)年頃に夫婦で求めた地で長く更地になっていたが、107歳で生涯を閉じるまで約10年間、田中はここで創作を続けた。設計は国立能楽堂、乃木会館などを手掛けた建築家・大江宏によるもの。

 美術館は1984(昭和59)年に平櫛田中の旧宅を「小平市平櫛田中館」として開館。1994年に展示館を新築し、遺族から作品の寄贈を受けたことを機に、2006年に「小平市平櫛田中彫刻美術館」に名称変更した。立派な日本庭園も備え、春と秋にはお茶会、夏の夕刻には虫の声を楽しむ「ナイトミュージアム」などのイベントも開かれていて、地域住民に広く親しまれている。

田中の生み出した彫刻たち
 展示館に入ると高さ238センチの《転生(てんしょう)》(ブロンズ、1920)が待ち構える。鬼の口から舌のように出ているものはよく見ると、逆さまになった人の姿。生ぬるい人間を口にした鬼があまりのまずさに思わず吐き出してしまうという、田中の郷里である中国地方に伝わる話に基づいて作られた。「生ぬるい人間にならないように」という田中の自戒を込めて制作したと考えられている。筋ばった筋肉や骨、みなぎる血流など、鬼の形相を見なくても圧倒される凄みがある。

 田中は人体の筋肉を深く観察し、表現することを目指した。田中の代表作で新歌舞伎十八番の一つでもある《鏡獅子(かがみじし)》(木彫彩色、1965)も金や白に輝く衣装に身を包んでいるが、その衣装の下には裸像が隠されている。その裸像の制作のために、実際に六代目尾上菊五郎に裸でポーズをとってもらったということで、制作する側ばかりではなくされる側の心意気も感じる話である。完成した《鏡獅子》は国立劇場に展示されており、同館に展示されているのは4分の1サイズの試作原型に基づいて制作されたもの。田中は《鏡獅子》の制作を始める際、25日間、歌舞伎座に通いつめ、さまざまな方向から観察しポーズを決めたという。戦争などで制作を中断したこともあり、完成に22年の歳月がかかった。今にも動き始めそうな手足やにらみをきかせた目、への字の口元など、歌舞伎の一場面を見ているようである。

 一本の木を彫って形にしていく田中の作品。《尋牛(じんぎゅう)》(木彫、制昨年不詳)や《鍾馗(しょうき)》(木彫彩色、1954)を見ると、木目が体の作りや服の模様を編み出していて感動する。何度か見たことがあるはずの作品に感動がひとしおなのは、この「芸術広場」に文を書かせていただくことで、これまでなんとなく見てしまっていた分野の芸術への興味・関心が掻き立てられてきたのかもしれない、と考えてみたりする。

 田中は木彫を制作する際に粘土で作った形を石膏に型取りし、「星取り機」という器具を使って木に写し取る工程で作品を完成させたという。星取り機はどの程度掘ればいいか深さを示す道具で、日本では明治末期ごろに西洋から伝えられて以来、昭和戦前期頃まで使用されていたのだそう。地下展示室には田中が使用した星取り機と、その技法によって印がつけられた石膏が展示されている。
 
 後水尾天皇(1596~1680)の残した歌とそこから生まれた指人形をヒントにして木彫や木彫彩色など、多数制作した《気楽坊》。同館でも複数を所蔵し、展示替えを行っている。後水尾天皇の「世の中は 気楽に暮らせ なにごとも 思えば思う 思わねばこそ」の歌の通り、体や手の動きからも、肩の力が抜けたような「気楽さ」を感じることができる。気楽坊の満面の笑顔、吉田茂と対面した田中が吉田の笑顔が印象的で、モデルにしたという。

平櫛田中を通して見る民藝の作品

 階段を上がると、高天井の開かれた空間が広がる。企画展などが行われる第3・第4展示室。ここで現在、開催中の企画展「民藝運動の作家たち」が開かれていて、田中が所蔵していた民藝運動の作家作品やその潮流にある作品が並ぶ。
 
 壁を覆うのは、棟方志功(1903~1975)の《二菩薩釈迦十大弟子》。田中の文化勲章受章の祝いの品として贈られたもので、12枚を前期と後期で展示替えを行う。人間国宝でもある染色家・志村ふくみさん(1924~)の美しい布がぎっしり詰まった《裂の筥》の布や着物も展示されている。着物は同館館長でもある田中の孫の平櫛弘子さんが田中から贈られ、実際に着用していたものだという。河井寛次郎(1890~1966)の《笹絵筒》や濱田庄司(1894~1978)の湯呑も並び、民藝の品々に囲まれた田中の日常が浮かんでくる。漆芸家の黒田辰秋(1904~1982)の《乾漆白檀塗干菓子器》《乾漆金鎌倉十字花盆》もそのフォルムと漆の美しさに釘づけになる。

 田中は濱田と親交があり、現在、記念館になっている田中の邸宅には、1971年、濱田と共にバーナード・リーチ(1887~1979)夫妻もイギリスから訪れた。そのリーチの9作品も並ぶ。イラストのようなタッチで描かれた《皿下図》(バーナード・リーチ)には、干物になった魚のような図柄も見られ、とてもかわいらしい。リーチのこのような絵を初めて見た。階段にはお土産の《梟(ふくろう)文香炉》(バーナード・リーチ)も展示されている。

 この第4展示室には東京美術学校(現・東京芸術大学)に設置された岡倉天心銅像の胸部と《ウォーナー博士像》(1970)も並ぶ。田中は岡倉を生涯敬愛しており、ブロンズ金箔の2つの像は存在感を放つ。地下展示室には、《鏡獅子》の試作裸像や写真などが展示されている。陽光が注ぎ込む吹き抜けの外部空間が設けられ、自分がどこにいるのかわからなくなるような日常からの開放感がふっと湧き上がる。この建物を設計したのは、邸宅を設計した大江宏の次男・大江新さん。

田中のエネルギーに包まれ味わう特別なとき
 記念館に進むと、田中が彫刻用に用意していたクスノキの原木が姿を現す。田中は100歳の時に、向こう30年間は創作を続けられるほどの原木を用意したという。この樹齢、推定500年、直径約1.9メートルの原木を前にすると、田中の創作にかけるエネルギーに圧倒される。短命な芸術家も多いが、田中は107歳まで生き、自身が98歳の時に「60、70ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から」という書《不老》(1970)も残している。

 2年の工事の間、田中は足しげく現場に足を運び、デザインをとても気に入っていたのだそう。記念館は応接室やアトリエ、居間・寝室など、田中が住んでいたままの姿で、当時の様子を彷彿とさせてくれる。応接室には濱田とリーチが訪れた時の写真が飾られ、実際にそのソファに座ることができ楽しい。「平櫛田中のすべて」(小平市教育委員会発行)には、弘子さんによって「リーチが筍ご飯を食べ、くつろいでいたこと」「後年、リーチの訪問者に 『心』という書を託し、受け取ったリーチも喜んだこと」などが記されている。ここには日本画家の奥村土牛(1889~1990)や片岡珠子(1905~2008)らも訪れた。

 田中の「いまやらねば いつできる わしがやらねば たれがやる」(1969)の書を眺めながら、いい言葉だなあと噛みしめる。田中が「いまやらねば」の思いで107年の人生を全うしたことを思うと、果てしない活力を感じる。また、弘子さんの文からは田中の優しさや孫やひ孫への愛情も感じとれる。

 静かだ。住宅街のありふれた静けさかもしれないが、ここは「平櫛田中邸(旧)」。多くの著名な芸術家や文化人も座ったソファに座り、田中の愛した玉川上水を借景とした立派な日本庭園を眺める。一人、その空間に包まれると、なんだか特別な瞬間を味わえたような幸せを感じた。田中の力強いエネルギーが漂うこの場所にまた来ようと心に決めた(文中・敬称略)。


※画像は主催者側の許可を得て撮影したものです。



写真1)小平市平櫛田中彫刻美術館・記念館外観



写真2)《鏡獅子》(平櫛田中、1965、木彫彩色)



写真3)第3展示室の様子



写真4)《皿下図》(バーナード・リーチ)



写真5)地下展示室の様子



写真6)記念館、応接室の様子



写真7)庭園の様子。アトリエより撮影


(参考文献)
1)「平櫛田中作品集」
小平市平櫛田中彫刻美術館 藤井明=編集、小平市教育委員会=発行、2014年

2)「小平市立平櫛田中館開館20周年記念特別展 平櫛田中のすべて」
小平市教育委員・小平市平櫛田中館=編集・発行、2004年

執筆・写真:堀内まりえ

〔展覧会情報〕
「民藝運動の作家たち」 
11月15日~2月4日

小平市平櫛田中彫刻美術館
http://denchu-museum.jp/