芸術広場芸術広場

国立トレチャコフ美術館所蔵 
ロマンティック・ロシア

2018年12月31日

《忘れえぬ女(ひと)》やロシアの風景画が内包するもの

 ■19世紀後半から20世紀初頭のロシア絵画の傑作群
 19世紀後半から20世紀はじめに描かれたロシア絵画を紹介する展覧会「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」が開催中だ。ロシアの広大な大地や深い森の空気を吸い、ロシアに暮らす人々の物語に触れたような独特の感慨をもたらしてくれる。ロシアを代表する画家たちが描いた風景画、肖像画や風俗画などの油彩画72点が出品。全てがロシアの四大美術館の一つ、モスクワにある国立トレチャコフ美術館が所蔵する名作である。東京のBunkamuraザ・ミュージアムを皮切りに、2019年11月初めまで岡山県立美術館、山形美術館、愛媛県美術館を巡回する。同時代のフランスではアカデミックな絵画への抵抗として印象派が起こり、ポスト印象派や新印象派が続き、20世紀になるとフォーヴィスムなどが生まれた。しかし、ロシア絵画はまた別の様相をもつ。

 ●展覧会構成 本展の構成は以下の4つの章からなる。
 第1章 ロマンティックな風景(1-1春、1-2夏、1-3秋、1-4冬)/第2章 ロシアの人々(2-1ロシアの魂、2-2女性たち)/第3章 子供の世界/第4章 都市と生活(4-1都市の風景、4-2日常と祝祭)

 ■ロシアの四季をめぐる
 Bunkamuraザ・ミュージアムの会場を入ると、まずロシアの春を感じる。そして夏、秋、冬をめぐる。本展ではロシアを描いた風景画の章が大きな部分を占めるが、その繊細な季節感覚に日本と通ずるものも感受した。

 ●レヴィタンやサヴラーソフの風景画 さて、春の情景だが、風景画家イサーク・イリイチ・レヴィタン(1860~1900年)は、透明感のある水彩画のような色調で《春、大水》(1897年、油彩・キャンヴァス、国立トレチャコフ美術館蔵)(本文中の全作品は、油彩・キャンヴァス、同美術館蔵。以下、略)を描いた。まだ新芽をつけていない真っ白で華奢な裸の白樺の樹々が、水面に根元を浸しながら空を仰ぐ。早春の水色の空には軽やかに雲が移ってゆく。雪解けによる大水の広い水面が空と樹々を映し出す。空、森、水面、そして遠くの家々、手前から伸びる土手。全てが一体となって春の訪れに目覚める情景には、自然と響き合い高揚する画家の心が感じられる。柔らかな音楽も聞こえてくるようだ。

 レヴィタンはモスクワ絵画彫刻建築学校で学び、アレクセイ・コンドラーチエヴィチ・サヴラーソフ(1830~97年)らに学んだ。師サヴラーソフは春になると弟子たちを外に連れ出したという。サヴラーソフが描いた、祖国の自然への愛情にあふれた《田園風景》(1867年)も出品されている。サヴラーソフは、叙情的風景画と呼ばれる新しいリアリスム絵画を確立した画家であり、レヴィタンらがそれを継承したのだった。

 ●シーシキンの風景画 風景画家の巨匠イワン・イワーノヴィチ・シーシキン(1832~98年)による《正午、モスクワ郊外》(1869年)は、驚くべき広大な空間を感受できる作品だ。画面の四分の三を夏の空が占める。太陽を抱え込んだような夏の雲が内部から光を放っている。下方に燃えるような黄金色のライ麦畑が広がり、はるか彼方に村の聖堂が見える。カーブした畑の間の道を歩む農民の後ろ姿が溌剌としている。野草などは丹念に写実的に描かれている。自然と労働の描写に清々しさと安らぎがある。本作は、トレチャコフ美術館を創立したモスクワの豪商パーヴェㇽ・トレチャコフ(1832~98年)の心をとらえ、彼が購入したシーシキン作品の最初のものとなった。

 一方、《雨の樫林》(1891年)でシーシキンは霧雨の林を描いた。夏の長雨でぬかるんだ樫林のなかの道を、男女が傘をさして向こうへ歩みを進める。霧雨に煙る林と大気の描写が見事だ。映画のシーンにも見えてくる。中景から遠景の人物や樹々の輪郭はあいまいに、手前の植物などは細部まで綿密な描写がなされる。写実的でありながら夢のようでもある。

 シーシキンはモスクワ絵画彫刻建築学校とサンクトペテルブルクの美術アカデミーの風景画クラスで学んだ。彼はロシアの広大な自然のなかに普遍的なるものを追求した。習作や小品をつくり、構成して大作を仕上げる方法を徹底して行った。

 ■ロシアの人々を描く
 ●レーピンによる肖像画 黒い燕尾服を身につけ、腕を組んでこちらを見つめる男の半身像が、暗赤色を背景に浮かぶ。髪はライオンのたてがみようだ。眉間に少し皺を寄せている。何か言いたげな口元。力強い筆致で描かれた肖像画は、この人物の自信、鷹揚さ、底知れぬ情熱などが感じられる。これは、イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピン(1844~1930年)による《ピアニスト・指揮者・作曲家アントン・ルビンシュテインの肖像》(1881年)である。ルビンシュテインは当時の音楽界で傑出した人物だった。幼くしてピアニストとなりショパンやリストをも驚嘆させ、長じてピアノ音楽の発展を通史的に表現するという画期的な演奏会も行った。レーピンは本作で音楽家の人間性を十全に描写した。これはパーヴェル・トレチャコフからの注文によって制作した作品だった。トレチャコフは、当時のロシアの各界で活躍する重要人物の肖像画制作を画家たちに依頼していた。

 レーピンはロシア的リアリスム絵画を代表する巨匠の一人。サンクトペテルブルクの美術アカデミーの歴史画クラスで学び、のちに教授をつとめた。彼は初期の《ヴォルガの舟曳き》(ロシア美術館蔵)(※出品無し)を初め、広いジャンルにわたる傑作を多数制作。本作は彼の円熟期の代表作だ。

 ●クラムスコイの女性像 レーピンの最初の師がイワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ(1837~87年)だった。クラムスコイの代表作《忘れえぬ女(ひと)》(1883年)は、タイトルのとおり、一度目にしたら忘れられない。19世紀のロシア美術のなかで最も人気が高い作品だ。霧のかかった冬のサンクトペテルブルクの大通りを背にして、若く麗しい女性が大きな瞳をこちらに向けている。黒テンの毛皮に縁取られたベルベットの外套をまとい、帽子には大きな羽根飾り。女性は幌を上げた馬車に一人で乗っているが、当時では珍しいことという。印象的なのはなんといっても彼女の強い眼差しだ。観る者の心に矢の如く挑んでくるよう。クラムスコイの優れた写実的な筆で綿密に描かれた、迫力ある傑作だ。

 本作の原題は《見知らぬ女(ひと)》だった。1883年の発表当時から、この絵のモデルは誰かという議論が巻き起こった。トルストイの小説の主人公アンナ・カレーニナではないか、いや、ドストエフスキーの小説『白痴』の登場人物ナスターシャでは、などの意見も出た。同時代のロシアはトルストイやドフトエフスキー、またチャイコフスキーやムソルグスキーが活躍し、文学も音楽も活気を呈した。絵画も文学的であるとも言えるかもしれない。しかし一筋縄ではいかないのが本作だ。絵に物語が秘められ、観る者の創造力を刺激するが、謎は解けない。そしてそのことが作品の魅力をさらに増強する。クラムスコイは、本作の制作過程で複数の人物の描写を重ね、普遍的な造形を追求したとされる。

 ロシア的リアリスム絵画を代表する巨匠クラムスコイは、画家であり、著名な美術批評家であり、社会活動家でもあった。サンクトペテルブルクの写真工房で働き、同地の美術アカデミーの歴史画クラスで学ぶが、1863年に「14人の反乱」のリーダーとなり、アカデミーを退学。1870年からは移動展覧会協会の創立者の一人として指導的立場で活動した。彼は移動展覧会で、苦悩する知識人をキリストに重ねて表現した《荒野のキリスト》(トレチャコフ美術館蔵)(※出品なし)を初めとする、自身の最良の作品を発表した。

 ■子供たちや夫婦や都市の姿
 本展では人々の生活を描いた風俗画も多数出展。南の空に飛んでいく鶴の群れを見つめる子供たちの後ろ姿が心に残るのは、アレクセイ・ステパーノヴィチ・ステパーノフ(1858~1923年)の《鶴が飛んでいく》(1891年)である。風俗画の巨匠として人気を博したウラジーミル・エゴーロヴィチ・マコフスキー(1846~1920年)による《大通りにて》(1886~87年)は、農村から都会へ出稼ぎにきた夫と、妻との行き違う心を描いた彼の代表作だ。ニコライ・ニコラヴィチ・グリツェンコ(1856~1900年)は《イワン大帝の鐘楼からモスクワの眺望》(1896年)で、玉ネギ型ドームをもつクレムリンの建築群の威容を描写した。

 ■移動展覧会とは
 クラムスコイの箇所で触れた移動展覧会について加筆しておきたい。「ロマンティック・ロシア」の展覧会に出品されている作品は、多くは美術史の上でロシアのリアリスム絵画と呼ばれるものだが、それを1870年代から80年代に開花させたのが、移動展覧会を行った移動展覧会協会の画家たちだった。契機は1863年のサンクトペテルブルクの美術アカデミーで起こった「14人の反乱」だった。これは14人の学生が卒業制作のテーマを学校から与えられたものでなく自由に選ぶことを要求したが、許可されず、退学した事件である。クラムスコイが率いたものだった。その後、彼らは進歩的な画家たちとともに芸術家協同組合を結成し、1870年には移動展覧会協会を創設する。移動展覧会協会は、ロシア美術に接したいと希望する人々に機会を提供することなどを目的に掲げて、ロシア各地を移動する展覧会を開催した。上記のサヴラーソフも、クラムスコイと同様に移動展覧会協会の創設者の一人であり、シーシキン、レーピン、ステパーノフ、マコフスキーも会員だった。

 またパーヴェル・トレチャコフは移動展覧会協会の活動を積極的に支援し、画家たちと深く交流した。そして同時代である彼らの作品を中心にロシア絵画収集を開始するのだが、これが現在の国立トレチャコフ美術館の20万点のコレクションの礎となった。

 ■ロシアの歴史と美術の流れ
 ここでごく簡単にロシアの歴史と美術の流れを振り返ってみよう。ロシアの最初の統一国家は、8世紀に誕生したキエフ・ルーシだ。そして15世紀にモスクワ大公国が発展し、ギリシャ正教が信仰され、イコンなど独自の宗教美術が盛んになった。1613年にロマノフ王朝が成立し、1917年のロシア革命まで300年間ロシアを支配する。17世紀後期から長く在位したピョートル大帝はロシアの近代化・西欧化を強力に推進し、18世紀初めにサンクトペテルブルクを新たに西欧風に建設し、首都をモスクワからここに移した。そして18世紀後半にはエカテリーナ2世がやはり長く在位する。18世紀を通してロシアは特にフランス文化を敬愛し、ロココや新古典主義、ロマン主義を取り入れ、華やかな文化が栄えた。なお1757年にサンクトペテルブルクに美術アカデミーが創立。アカデミーでは歴史画が重視された。

 19世紀初頭、ロシアはナポレオン軍を破るが、1856年にクリミア戦争に敗北。1861年に農奴解放令が公布されるが、各地で暴動が続いた。1917年に革命が起こり、ロマノフ王朝が終焉を迎えた。19世紀以降、ロシアの美術は独自の道を歩み始め、ロマン主義から写実主義に向かう。19世紀後半には、保守的なアカデミーと訣別した移動展覧会協会の画家たちが、ロシア的リアリスムの絵画を創出する。

 ■「ロマンティック・ロシア」という言葉に込める
 本展で紹介する19世紀後半から20世紀初頭のロシア絵画は、ロシア的リアリスムと呼ばれ、ロシア美術史上の一つの達成とされる。リアリスムとは、理想主義に対する概念であり、客観的現実を尊重し、あるがままに描写する態度や方法のこと。しかしロシア・リアリスムの絵画は、フランスのギュスターヴ・クールベ(1819~77年)らのリアリスム絵画とも異なり、独特なのである。

 本展のキュレーターであるガリーナ・チュラク氏(国立トレチャコフ美術館 19世紀後半・20世紀初頭絵画部シニア・キュレーター)は、本展開幕前日のプレス内覧会で次のように話された。「ロシア絵画をどうしたらわかっていただけるか。それを考えて展覧会を構成しました。展覧会タイトルの「ロマンティック」には、高まる気持ち、清らかなもの、神秘性、言葉にできないもの、などの意味を含んでいます」と。写実主義とロマンティックの重層。自然との深い関わり。この時代のロシア絵画の魅力を会場で味わってほしい。


【参考文献】
1) 宮澤政男・新倉慎右・橋村直樹・岡部信幸・武田信孝・市川飛砂・野本美咲・鈴木彩希 編集:『国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア』(展覧会カタログ)、ガリーナ・チュラク・亀山郁夫ほか執筆、アートインプレッション 発行、2018年。
2) 新田喜代見 執筆:ロシアのレアリスム美術、『世界美術全集 第21巻 レアリスム』(馬渕明子 責任編集)、小学館 発行、1993年。

執筆:細川 いづみ (HOSOKAWA Fonte Idumi) 
(2018年12月)

※会場内の風景画像は主催者側の許可を得て撮影したものです。


写真1  Bunkamura ザ・ミュージアムの会場風景(以下同様)。
右から、イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ《忘れえぬ女(ひと)》、
1883年、油彩・キャンヴァス、国立トレチャコフ美術館蔵。
ヴィクトル・ミハイロヴィチ・ワスネツォオフ《タチアーナ・マーモントワの肖像》、
油彩・キャンヴァス、1884年、国立トレチャコフ美術館蔵。
撮影:I.HOSOKAWA)


写真2 会場風景。
右から、イサーク・イリイチ・レヴィタン《春、大水》、
1897年、油彩・キャンヴァス、国立トレチャコフ美術館蔵。
イリヤ・セミョーノヴィチ・オストロウーホフ《芽吹き》、
1887年、油彩・キャンヴァス、国立トレチャコフ美術館蔵。
(撮影:I.HOSOKAWA)


写真3 会場風景。
右から、イワン・イワノーヴィチ・シーシキン《雨の樫林》、
1891年、油彩・キャンヴァス、国立トレチャコフ美術館蔵。
イワン・イワノーヴィチ・シーシキン《樫の木、夕方》、
1887年、油彩・キャンヴァス、国立トレチャコフ美術館蔵。
(撮影:I.HOSOKAWA)


写真4 会場風景。
右から、イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピン《画家イワン・クラムスコイの肖像》、
1882年、油彩・キャンヴァス、国立トレチャコフ美術館蔵。
イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピン《ピアニスト・指揮者・作曲家アントン・ルビンシュテインの肖像》、
1881年、油彩・キャンヴァス、国立トレチャコフ美術館蔵。
(撮影:I.HOSOKAWA)

【展覧会名】
Bunkamura 30周年記念
国立トレチャコフ美術館所蔵
ロマンティック・ロシア

Bunkamura’s 30th Anniversary
Romantic Russia
from the Collection of The State Tretyakov Gallery

【会期・会場】
[東京会場]

2018年11月23日 ~2019年1月27日  Bunkamura ザ・ミュージアム
電話:03-5777-8600(ハローダイヤル)
展覧会HP
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/18_russia/
[岡山会場]
2019年4月27日 ~6月16日  岡山県立美術館
電話:086-225-4800
[山形会場]
2019年7月19日 ~8月25日  山形美術館
電話:023-622-3090
[愛媛会場]
2019年9月7日 ~11月4日 愛媛県美術館
電話:089-932-0010

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